ふっくらとした身体、という表現

弊社ホワイトにつき、特別休暇のおかげで何もせずとも自動的にGWが大型連休になったので、早めに実家に帰って来ました。
寝る前に物置にあった父の本を読んでいる。


父親は布団の脇に単行本を壁のように積んでいた思い出がある。


本が昔から好きで、家にある本はとりあえず読む派だった私でも、大量にある父親の本はなぜかあんまり読んだ事なかった。
主な著者は菊地秀行とか、J.Pホーガンとか、司馬遼太郎とか。


当時はなんか手に取りづらいなって位だったけど、今なら単純に嗜好が違いすぎるせい、だろうなと思う。
何が好きかもよくわかってなかった頃と違い、趣味嗜好がはっきりしてきた今では、好みのタイプの話でなくても、逆に興味深く読めたりもする。年月が経てば受け取れるキャパも変わるもので。


例えば菊地秀行の追撃者っていう短編集は割と面白く読めてる。

「瞑想迷路」で、上石神井に家があるサラリーマンが、西武新宿近辺の飲み屋街から抜け出せなくなる話とか

「彩り」で、亀戸に住んでる女が、有楽町から銀座四丁目をただ往復し続ける仕事をする話とか

その場所を知っている身からすると、急にリアルになって、
東京を知らない子供の私には、市川や船橋から総武線に乗って来る女子高生についての感想や、歌舞伎町あたりのスナックのゴミゴミした感じとか、東京駅の総武線は深いところにある、なんて描写はただ目の前を過ぎて行くだけだったと思う。それは魔法界への入り口が9と4/3番線の柱の中にある、と変わらないファンタジーだったはず。
(あと個人的にこの人の現実を舞台にした少し不思議な短編は面白いけど、マッチョなファンタジーバトルものはあんまり好みでないだけってのもあるけど)


やっとこの歳で面白く読めるようになって、やっと、あの人はこういうのが好きだったんだなって思うことができる。
あの人も学校が東京だったから、同じような感覚で読んでいたんだろうか。


最近ウイスキーをちゃんと飲み始めた。ロックでカラカラさせるのが好き。
父はいつも水割りを飲んでいた気がする。
いなくなってしまった人の事はもうわからないけど、同じものを飲むことはできる。
仏壇に手を合わせる事ができない代わりに、ウイスキーを飲んでいる。
思えば兄がお酒を飲めるようになってからずっとウイスキー派なのは、私と同じ理由なんだろうか。


家族を理解したと思っていて、全然理解できてない。


母はお酒はビールだと1杯で終わりだけど、ウイスキーが好きな事とか
スポーツ系の部活やサークルをはしごしてた事とか
幹事が好きで、ひょうきんな余興を考えるのが好きとか


祖母は最近死期に対して弱気な発言が多くなったりとか
(我が家のラスボスみたいな人だったから、弱気なところなんて見たこともない)


なんたって姪が小学校に行くのだ。
私の持ち物だった本も賞状も全部捨てて、部屋と机を姪にあげた。
ささやかながらもこの土地で踏ん張ってた痕跡を全部捨てた。
(泣きながら書いた書き初めの賞状も、子供らしくないと言われながら描いた絵画コンクールの賞状も、ずる賢く立ち回ったスポーツ大会の賞状も)
私は初めて私の部屋だった場所ではなく、客間に泊まってる。
何も変わらないはずなんてない。


行ったことあるお店がなくなったり、何もないところに素敵な古本屋さんができたり、
小学校からオルガンが消えたり、ハイカラなチアリーダーのこども教室ができてたり、
知らなかったことが理解できたり、常識だと思ってたことが何でもなかったり。

どこにでも行けると理解できたり、
山に囲まれた、田んぼの広がるこの土地もわくるないと思えたり

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実家の廊下にある椅子とテーブルのセット、20年間飾りのように扱って全然使ってなかったけど、明日は初めてそこで座ってお茶を飲もうと思う。
本を読みながら、我が故郷の山と田んぼを眺めながら。