女らしさについて本気だして考えてみた

再生回数が3億って初めて見た


占いをしてもらいにいった時に、「この生の目的は良い家庭を作ること」「女らしいということをもっと考えたほうがいい」と言われた。


前世が男だったらしく、今世では女心が知りたいと思って女を選んだらしい。けど相変わらず女心がわからなくて時々男として生きてるらしい。


たしかに女の気持ちとか全然わかんねぇなと思ってたところでちょうど宇多田ヒカルが女らしさについてpostしてた
「男とか女とか関係ないじゃん!と私は思えない。実際に身体の構造や欲求が違う。誰しも女性的・男性的な部分両方持ち合わせてると思うよ、そういう性格の問題を言ってるんではなくて。自分の性を受け入れてあげること。本当の女性らしさってなにか、考えてあげること。それはいいことだと思う。」

「自分の「女性性」に目覚める前から、年上の男性ばかりの職場で同等に、もしくは指示を出す側の立場で働き出して、男性目線は発達したけど「女性性」を蔑ろにしてたと、最近気付いたよ。」

宇多田ヒカルさんの語る「女性性」と「求められる自分」


その後フェミニズムについてバトルしてる人のpostを見る
「承前 http://bit.ly/chjlNP)なんかピナ・バウシュがその芸術的人生のすべてを賭けた一大テーマ、「人の美しさの本質とはなにか」を壮大に侮辱された気分になるな。自分の存在そのものに美の可能性があることになぜ気付けないんだ、女も男も?」

「なんだかフェミニズムが女性が女性らしく美しくあること、その美しさを追求することを否定するエクスキューズに使われるというのも、単に容姿にコンプレックスがある男女のやっかみにしか見えないんだが。問題はなにを「美しい」と思うその価値観をどこまで自問できるかだろうに。」

「ニッポンの自称「フェミニスト」の最大の勘違いは、フェミニズムを「私たち弱い女性を守ってくれる思想」だというおおいに間違った考えを前提にしていることにある。フェミニズムというのはそもそもが「女は男より弱い」という誤った観念を根底から否定する思想なのだということが分かってない。」

「今の日本でフェミニズム気取ってる女性の大半は、平塚らいてふの「元始、女性は太陽であった」って言葉を知らないんだろうか?「太陽」であるのに「男の被害者としての女」としか自らの女性性を認識できないって、なんなのよそれ?決して「月」じゃないんだよ、「太陽」だよ「太陽」!」

「承前 http://bit.ly/bDnHyX)「女性は太陽であった」(平塚らいてふ)、あるいは「I am a woman, hear me roar!」といった女性が女性本来の美しく誇らしく強い存在であるべき理念は、「女性=被害者」という予め去勢された抑圧装置に変貌する。」

「僕もそう思うんだけど、下手すると「女が女であること」を楽しんじゃいけないみたいな道徳律が潜在的にあるのかな? RT 意識下でも無意識下でも「常時セク被害者」「女性として搾取対象」とか日常的に考えそれをネット内にまで…毎日つまらんだろどう考えても…」

「同情して言うなら、それも分からないではありません。「女が女であること」をハンディとしてしか捉えられないように女を育てている社会が、現に日本にあるわけですから。でもそこに留まっていていいんですか?」

「フェムニズムというのは女性性の解放を理念とする(それは父権の否定によって男性性の真の解放も結果として意味する)ことであって、性差それ自体の無効化だったらただの去勢の抑圧にしかならん」

「承前 http://bit.ly/aHzLuh)たとえば本気で「セクハラ」をなくしたいのなら、「私は弱い被害者の女性の味方です」と正義ぶって女性に依存を強要する、その依存構造こそがセクハラの温床であることを、「私はフェミ」な女性もそれを「支援」する男性も、まず気付くべきなのだ。」


toshi_fujiwara


そしてひょんなことから中村うさぎの「私という病」を読む

私という病 (新潮文庫)

私という病 (新潮文庫)

「男は女の性欲が怖いのだ。何故なら女は母であるからだ…とこのように述べた男性がいるが、それが本当だとしたら、もはや男に対して何を期待しても無駄という気がする。彼らの女に対する差別意識は、ここまで根深いのか」
「己の中の差別意識を正当化しようとして、逆に女を『神格化』するわけよ。『母』という聖域に祀り上げて…人間性を認めない、という点では、露骨な男尊女卑論とまったく変わらん。下のものを上に持ってきただけじゃん」
「女は『人間』なのである…すべての女は『神』でも『獣』でもない、あなたと同じ生身の『人間』なのだ…女性差別について私が語ったからといって、そんじゃ格上げすれば私が得々するとでも思っているのか」
「お願いだから、女を『人間』として、対等な目線で見てちょうだい。相手を人間として見ないか限り、『理解』も『共感』も生まれないでしょう?」
「女であるがゆえに受けるセクハラも、女でなくなったがゆえに受ける杜撰な扱いも、ともに、女を人間として見てない男たちならではの行為である。相手の女にも痛みや苦しみや屈辱という感情があるのだという、そんなの当たり前のこともわからず、共感も感情移入もせずに『物』として扱うからこそ、我々のプライドは傷つくのだ」
「助けて欲しいって言ってるんじゃないの。どのみち、自力で這い上がってみせるから。ただ、這い上がろうとする私たちの手を、泥靴で踏みにじらないで欲しいだけ。這い上がってきた私たちに、笑顔で頷いて欲しいだけ。そういう男たちが少なすぎるのよ」
「己の『主体性』にこだわる人間であるからこそ、男たちから一方的に性的対象として扱われることに対して、怒りや屈辱を感じるのである…『女である』ということは、男の性的対象となることに関して、自らの主体性を手放さなくてはならない、ということなのか?女はいつも『性的客体』でなければならず、それを受け入れなければ恋もセックスもままならないのか?そんなはずはない」


あとは作中で「女としてイケテルか考える事自体を蔑む、女性意識を封じている普段の自分」とは別の「女としての価値を認められたい自分」というジレンマを、デリヘル嬢というコスプレをすることで解消したと書いてある。「自分で」自分に値段をつけることをよしとして、男に「買わせる」ことで性と体の主導権を自分に取り戻したと

(別の自己を演じるのがコスプレなら、ネットは広大なコスプレ会場だよなと。自分と見た目も名前も違う(性別すら違う)アバターネトゲするのも、2次アイコンを使って匿名でツイッターをするのも、それが今出せてない別の自分というコスプレだからなんじゃ。
でもそれはふざけてるわけじゃなくて、あくまで自分の一部だから本気だしちゃんと大切にするし、お互い尊重する。例え顔も本名もわからなくても)


そういう矛盾する自己は誰しも持っている。特に女は「女として生まれついた自分」という事実と「女として今の社会で生きる上での絶望的なハンデ」の力で引き裂かれる「女のでいたい自分」と「女でいたくない女の自分」を共通して持っているんじゃないか。

作中で「NANAの人気は、2人のナナとハチという『引き裂かれた自己』の代わりになる『分身としての他者』とお互いが理解し合う話が、男に絶望しきった今の女たちに響いたからではないか」とあるけれど、これもたしかにと思った。たしかに周りではNANAの感想といえば誰それがカッコイイ、より先に、あんな風にルームシェアしたい!が出てくるなぁと。
同じネタが江古田ちゃんでもあったな。朝まで友人Mと罵倒しあった後に、老後は一緒に老人ホームに入ろうね、私あんたがいてくれればいいやっていうやつ。


私も女であることについては、もう10歳くらいからずっとうんざりしてる。10歳で社会の何がわかる、という感じではあるけれど、それでも男と女は別物で今の社会で同じような社会的成功を得るにはすごくハンデがあるんだ、ということは肌で感じてた。とても田舎の農村で何かにつけて男を女が立てる地域だったせいもあるかもしれない。
それを兄に言っても「女は楽できるからいいじゃないか。男に養ってもらえるし。男は大変なんだぞ」と笑って言い返されたからこいつ駄目だと思ったけれど。女でいたらその大変な思いすらそもそもできないじゃないか、と。しなくていいんじゃなくて、できないことが嫌だと言ってるのに。
あとは女であるからというだけでなぜ男を立てなければいけないのかも理解できなかった。なぜ私は兄よりお年玉が倍も少ないのだろう。年齢の差なら理解できるが、男であるという理由で兄は私の倍額もらい、女であるという理由で私と妹は同額だった。それを訴えるとそんなにお金が欲しいのか、となる。
なぜ私は兄の分の皿を洗わなければいけないのだろう。兄が仕事をしていて私が主婦だったら理解できるが、お互い子供である。条件は平等である。それを訴えるとそんなに手伝いがしたくないのか、となる。
もう!


けれどそんなに女が嫌なら性転換しようか、とはならないのだこれが。(よく国籍うんぬんの話がこういう論調になる気がするけど)女で生まれたことは事実だし、自我が立っている地面が「女」なのだから男になったらそれはもう私ではなくなるし。ただなんで女ってこんなに生きてくうえでやっかいで面倒で我慢しなきゃいけないことがありまくるんだ、という行き場のない恨みつらみがずっとあるだけ。


よく「女の生理はこんなに大変!」っていう話が出るたびに「男だって局部を殴打すると死ぬほど痛いんだぞ」っていう返しがでるけど、すげぇ的外れだなと思う。骨折して痛いし日常生活が大変で、と言う人にこっちは盲腸で痛いんだぞ、と言ってるようなもん。痛さ比べをしたいんじゃなくて、骨折してるから痛みにうめいたりギブスで動きが悪いだけなんです、って説明してるだけ。骨折のギブスみたいに目に見えてわからないから言葉にしてるだけ。どうしてギブスして動けないと心配されるのに生理で動けないと冷たくされるんだろうねっていう話。


そうするとなぜ生理でつらいこと、生理であることをおおっぴらに語れないのか、という事になるのだけど。いつから生理は不浄で汚物で恥ずかしいことになったのか。「耳をすませば」で生理の女の子を男子からかうシーンがあったけどあれ見るたびに尋常じゃなくイラっとする。生理っていう現象はお前らにバカにされてヒエラルキーの上下を決定づけるようなことじゃないのに何勘違いしてるんだと。
思春期お悩みコーナー的なもので、生理がくると憂鬱になる、女じゃなければよかったのに、という人に対して私は生理がくると体か健康なんだなよかったと喜ぶようにしてますよ☆という人がいて、本来は後者が正しいはずなんだ。生理っていうのは確かにめんどうだけど、ヒゲが伸びるとか顔がテカるみたいな生理現象の一つだ。暗鬱にさせる空気、女である事をめんどうだと思わせる孤独感は一体何なんだ。


生理の痛さを思い知れ、という他罰的なことではなくて、理解できなくてもいいから想像して欲しい、というだけなのだけど。体験できないものは理解も想像もできん、ということならスプツニ子さんの「生理マシーン」がある!
スプツニ子!オフィシャルブログ
性差をテーマにした女性アーティスト、それもユーモアがあって、あくまであっけらかんとした明るさがある作品を作るスプ子好き


そこで上のtoshi_fujiwaraさんのツイートに戻るのだけど、女が女らしく(おしとやかとか大和撫子ということでなく)自分の性欲や身体について語ったり自分の体が美しく見える格好をすることで、下品だ自分より格下だとレッテルを貼ってくるする男、あまつさえそんな女には何をしてもいいとセクハラをする男、そしてそれを許す社会と闘うのがフェミニズムだ、と言っているように受け取った。
だから女は弱いから男と平等の待遇になるように引き上げてくれ、というのは違うと。そしてその対価に女であることを諦めますから、というのは間違っていると。
女というだけで蔑んだり、女らしくあることを良く無いものと貶めるな。女は強いんだから、と表明するのがフェミニズムであると。
セクハラを訴えやすくなったのはあくまでも対処療法的なものでしかないし、仕事の待遇を平等にしろというのは根本的な話ではないということか。何かを変えようとしたら根っこから変えないといけない。
ちょっと前まで女でキャリアをつむのは見た目に気を使わないようななりふりかまわない人しかできない、っていう話も典型的にあった。
確かに今の社会でわたり合っていこうと思ったら見た目なんていじってられないほど大変だ。「今の社会」なら。でも、根本的に闘うべき相手は「同僚の男」ではなくて「そういう大変さを強いる社会」となんだ。


そして宇多田と冒頭のGAGAに戻る。
女としての自意識は男と対等に仕事をするには邪魔だし、諦めなきゃいけなかった。そもそもそういう女の身体的な特徴(色気)や感受性の豊かさ自体、はしたないものだと思っていた。色気というものは下品で男に媚びを売っているものだから。
でもそうやって男の真似をしても男にはなれないし
そもそも女というのはこんなにかっこいいんだ、と知ったのがGAGAを見てから。

GAGAを見たのはほんとに最近で、それまではなんかファッションが奇抜で自分でLedyって名乗ってる最近売れてる歌手、位にしか認識してなかった。
PVとかライブを見てなんだこれ、かっこいいってなった。上手く表現できないけど、それは奇抜な格好だからとか歌が上手いからとかではなくて、女ってすごいってことを見せつけられたからだと思う。
彼女は「トップとボトムを同時に着ない」し「脂ぎった男をはべらせる」し露骨に男と絡むし衣装のほとんどは体の線を丸出しにするし、この上なく「女」であることを主張してる。PV中でまんま自分を男に売ったりなんてこともする。
でもそれはその行為が美しいからやっているのであって、男に媚びる為にやってるんじゃないように見える(彼女を買った男は最後には殺されるし)
体の線を出すのだって、自分の体が男にとって色っぽいから出しているんじゃなくて(ピンナップガールみたいなボンキュッボンではないような。十分にスタイルはいいけれど)女の体というものがもともと美しいからそうやっているんだと思える。
そもそも彼女はレズビアンだから、男に媚びる必要がない。だからそのあえてやる、ということがかっこいい。
ダンスは薄めたセックスだと誰かが言っていたけど、彼女はまさにそれ。しかも薄め方が濃い。でもいやらしいとか下品だとかではなくかっこいいと思うのは、その行為の主体が彼女であるというのがはっきりしているからじゃないか。彼女は自分で決めてやっている。やりたいからやってる。主導権がある。ヒエラルキー的に上に立っているのがはっきりしてる。
主体的な行動っていうのはかっこいい。


昔読んだ漫画で、第二次世界大戦前後の日本を舞台に、農村から一緒に出てきた性格の違う女の子二人が一方は美しさを武器に貴族に成り上がり、一方は真面目さから新聞記者になるけれど交友はずっと続いている、という話があった(今思うとNANAみたいだ)。それのテーマも平塚らいてふの「元始、女性は太陽であった」で、女が今よりもっと抑圧されていた時代に二人はどう生きたか、という内容だったと思う。
子供の時に読んだせいでその時はよくわからない漫画だな、と思ったけれど、印象に残っているシーンがひとつある。貴族を目指す女の子が、だいぶ身分を上げた頃にパーティーで知り合った軍の将校の若者と初体験をするのだけど、そのシーン。彼女が男より先に起きて「世界が違うようだ」みたいなセリフと共に不敵に笑うというもの。エロゲにあるような泣いて微笑むようなものではなく、かといってあなたと一緒になれて感激というものでもなく
身分の高い男に「選んでもらった」のではなく、そういう行為の相手として都合のよい相手を「自分で選んだ」という感じがとてもかっこよかったのを覚えている。そのシーンにいやらしい感じも湿っぽさもなくて、計算高い感じが魅力的ですらあった。その後その男がもう自分の女になったという感じで接してくるとにべもなくフってるし。


計算高いというのは、その計算を自分でするということだ。誰にでも平等にというのは素晴らしいけれど、何も考えないでただ対応を均一化しているだけとも言えるんじゃないか。
(打算でいいのよ、と不敵に笑った高校の時の美人を思い出す。彼女も基準はいつも周りがどうじゃなくて彼女自身がどうしたいかだったと思う)
そういうものをいやらしいとか下品だとかいらないものだと言って排除するものと闘わなきゃいけないし、その為には自分がどうしたいかを考える必要がある。周りから見てどうとかじゃなくて、たとえ突飛でもやりたければやればいい。やりたいことが何の(誰の)価値観を基準にしているかを考えること。
とりあえずフェミニズムについて自分だいぶ誤解してたんだなというのが理解できてよかったな。

女らしさについて考えようと思ったらそういう話がこうやって立て続けに入ってくる。一緒に占いに行った子が、結婚について考え始めたら結婚の話がたくさんはいってくるーと言ってたけど、意識すると引き寄せるって本当かもしれない。気にしてるから印象に残ってるだけとも言えるけど、でも立て続けだなぁと思う。同じように未来の心配をむやみにすると引き寄せちゃうらしい。願えば叶う。
まんなかは自分