もし部長や恋人に「どこ行ってた!」「何してたの」と問い詰められたら「ケータイが車にひかれた」と言い訳するのがベストです
- 作者: ミヒャエル・エンデ,イェルク・クリッヒバウム,Michael Ende,丘沢静也
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1988/09/14
- メディア: 単行本
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エンデ=物語作家 のイメージがとても崩れた
「鏡の中の鏡」で見せたとんでもないイメージの波から、どんな人だろうと思っていたら
「画家だった父についての3日間のインタビューから、エンデ本人の思想が見えてくる」っていうカバーの言葉はまさにそう
合間合間に挟まるデッサンがシュルレアリズム的でかなり好き。
美術館とかで一枚だけ見るより、まとめて見ると印象がよくなる、というか好きになることが多いと思った。だから回顧展とか個展が好きだ。
面白かったのはドイツ語とイタリア語の違いにかなりの量を言及してること。イタリア語は直感的だがメタファーが無い。ドイツ語は秩序が必要だが自分で言葉を作ることができる、など
ドイツ語は詩を紡ぐ言葉、イタリア語は歌を歌う言葉、フランス語は愛を知る言葉、っていうことと繋がってるような気がする
外からドイツを見よ、と言っているのだけども、ナチス時代に気を使ってふたりとも話しているな、という印象も行間から滲み出てる。
あくまで良しとしているのは文化に対してであって、国土やナショナリズムとは無縁である、とか外に出る事でドイツ人であることに対して楽になれましたか?などわざわざ言及してる点とか
ふたりともあくまで今の世界は西洋が作ったもので、西洋が進化することでアジアその他の地域の文化をひっぱっていこう、という意識もチラ見えたり
となるとドイツの外に出るだけじゃなくて西洋の外に出ることも必要なのかも。日本だったら日本から出るだけじゃなくてアジアから出て日本を見る必要がある、と。究極は地球を出て宇宙から世界を見る必要がある。でないと意識バイアスはどうしても取れないものみたい。
以下メモ
「芸術家はどんな場合でも孤独です。成功して世間に受け入れられても、成功せず受け入れられなくても、です。ピカソは今世紀で一番成功した芸術家だったわけですが、それにもかかわらず彼が孤独ではなかったなどと信じられますか?孤独だったことは絶対に確実です」
「ではエンデさん、あなたご自身も孤独なんですか?」
「もちろん」
「ご自分が芸術家なのであると、いつも意識しているからですかーそれとも、ことによると、麻痺とか脅迫のようにときおり感じるのですか?」
「麻痺とか脅迫とかではなく、私の存在の当然の前提として感じるわけです、孤独でない人は、芸術や文学の仕事をしようなんて考えもしないと思います」
「ブルックナーの場合、頂点をきわめることが大切なのではない。運動こそが決定的なのです。それが私の言う喜びの原理です。なにかをしているほうが結果より重要だとわかったとき、シシュフォスはもう呪われていないのです」
「父にとっては疑いようがなかったのは、感覚によって近くできる世界の背後に、ひとつまたはたくさんの別世界があって、そういう別世界は感覚では知覚できないけれども、おなじように現実的、いやはるかに現実的ですらあるかもしれない、ということです。そして芸術は父にとって橋のようなものだった。そういう別世界に通じる橋だったのです」
「概念とは、死んだイメージなのです。ですから父が需要だと考えていたのは、そういうプロセス全体のむこうにもどって、イデーがまだ生きている場所、イデーの生まれ故郷、まさにそういうところへ帰ることだったわけです」
「私たちは今日、次のような状態にちょっと馴れっこになっています。作者は、主として自分を説明し、自分の世界観、自分の思想、自分の感情をくわしく説明する。そして読者に残されたことといえば、それらを知識として仕入れ、たかだかときおりどこかで『そうだ、ぼくと同じだ』とか『私とまるでちがう考え方だわ』と言えるだけ。だいたい今日の読者の態度は消費者的なのです」
「文化とは、多くの人間が共有するものであり、だからそれは共同性に基づいているわけです。ですが将来、私たちはそういう共同性をどこで手に入れるのでしょうか?本能や血を共有しているという共同性は姿を消しつつあります。それは必然ですらあるわけです。いいですか、そういう共同性はこれからは精神的・霊的なもののなかに、概念以前のイメージのなかに見いだせるでしょう。そういうイメージは、不思議なほどに通っているのです、どの人間にとっても」
「私たちの伝統的なキリスト教会も現代のコンピューター社会の問題には答えることができません。キリスト教会はつねに沈黙したままです。十六世紀以来、もう答えがわからないのです」
「われわれの発達は、ひとつの終着点に達しており、いまや、突き破るような体験によって、まったく新しい意識を経験しているのだ。意識の突然変異のようなことが起きているのだ、というわけです。
意識の跳躍によってほんとうにふたたび未来の人間は、実在していると考えられる霊的世界と、まったく直接に対話するようになるわけです」
「エジプトの神々が動物の頭をしているのは、理由がないわけではありません。動物の頭をしているのは、エジプト人が、まさに人間とは異なった外見の別な種類の存在を知覚していたからです。それを外的な実在として表現する場合、同じ印象をあたえるためには、イビスの頭をした人間の身体として表現するしか無いわけです」
「そういう転換のプロセス、変身のプロセスによって、独自のものが生まれてくる。そしてそれが芸術なのです。芸術はとは、これは父の口癖だったのですが、芸術とは彼岸にもなければ、此岸にもない。その中間に存在しているのです。それは人間が創造するものであり、人間が創造する世界なのです。まったく新しいものを表現して、現存の被造物の仲間になるのです」
「占星術のことでも考えてみてください。これも現代ではつねにひどく誤解されています。いつも因果的な理論を占星術に求めるからです。そもそも占星術は照応・対応説にもとづいているのです。ただ私たちのほうが照応・対応ということを、すっかり忘れてしまっただけなのです。しかし魔術的あるいは神秘的な世界像はすべて、照応・対応にもとづいています」
「私はデティールからでは、意味を読み取り意味を思い描くことはできません。意味を思い描き、生の意味が発見できるのは、全体をもとめる場合だけです。「ひとつであること」をもとめる場合だけなのです。宇宙というものはどうなるのだろう?なんのために私はこの世にいるのだろう?私はどこから来たのか?私はどこへ行くのか?」
「いつも私たちは、もはやイメージ言語をストレートに聞くことはなく、ストレートに知覚することはないと思い込み、イメージ言語を一義的な概念言語に転換しなくてはならず、そうやってはじめて理解できるのだと信じ込んでいます。ですから、どうしても別の言葉に言い換えなくてはならないというわけです。
しかしそれは間違っています。わたしたちが見る夢もイメージですし、それを私たちはまったく直接に体験するわけです。ですからイメージ言語のほうが、根源的で、生きたものなのです」
「もしも芸術が説明できるものなら、芸術のかわりに最初から説明すればいいわけです。そうなれば芸術は余計な物となるでしょう。それどころか説明のほうは、もっと明快になるかもしれません。しかしそういうことは不可能です。芸術は説明できない。それどころかこの点にこそ、芸術の必要性とか存在理由があるわけです」
「そして父がイタリアに感心していたのは、イタリアが根本的にちがう他者だからなのでしょう。そのおかげで自分自身のイメージが、いっそうはっきり感じ取れたわけです」
「もしも神秘主義が明晰なものではないと思われるなら、私としてはごく簡単に、それはあまりにも神秘主義を知らなさすぎる、とだけ言っておきましょう。そう思うなら、ともかく自分で苦労して、神秘主義者たちの著作を読んで見ればいいのです。まったく的外れだったとわかるでしょう」
「…そこでは「舟」というイメージと「言葉」という概念がまだ完全につながっています。それがここ何世紀かのあいだに消えて、そのようなつながりがわからなくなってしまったのです」
「一神教というのも、まさにここ何世紀かのあいだ、誤解にさらされてきました。あたかも、この世界の多くの存在のなかに特別にひとつのもの、があるかのように思われてきました。もともと一というのは、ギリシャの数字で、またカバラにおいても、最大の数なのです。
一こそ最大の数なのです。一は全体だからです。一がすべて」
「『一なる者は神であり、神は一なる者であり、それ以外の者ではない』それはつまり神は全体である、ということです。もともと一神教とはそのような意味だったのです、ですから、この全体のなかに、この根源的で最終的な一のなかに、無限の多様性がふくまれているという事実には、基本的な相違はまったくないわけです」
寝よう。一日の行動で寝るのが一番やる気を使うわ。