写真によって生け贄にされた人物や風景が、あの世に捧げたものを見よ。 志賀理江子



<全体講評>
主にしろうさんと佐々木さん


色調・明度が合ってない

合成という感じは残っている
まったくきれいに合成しきればいいと言うわけではない
狙ってやっているなら狙っているような作りに

素材としてある程度制約のついている写真だから、成功してるのと成功してないのがある

テーマ方向性はよい

技術が足りない

パネルの貼りが汚い
そういう工作がヘタ

予備校で平面構成とかやってきたでしょ?構成とかがヘタ
水張りできない子なんだな



<ラボ別講評>
主に畠山さんと港さん


ファウンド・フォトっていう流れがあってね、蚤の市とかで手に入れた古い写真の世界を読みとくような作り方

タイトルの「存在」はどうだろうね。
写真集のタイトルは、写っているそのものを表すのが普通だから、内容と直接的でないタイトル付けは見る側を混乱させる
見た人が何を感じるかをもっと考えてつけなきゃ

あからさまなものと心霊写真みたいなものとあるけど、分類はしてるの?

数をもっとたくさんつくらないと

中間の時のサービスプリントのサイズの感じがなくなったのが残念

壁張りの方向性でいっぱい作ったら。作り続けて突き詰めたら見えるものがあるからさ




<その他全体的に気になった講評>
作品の荒い、ヘタな部分。それを自分の「味」として自覚しているか、突き詰める覚悟はあるのか


中身もそうだけど作品の展示の仕方をもっとちゃんとしないと


技術のもつ背景にどれだけ造詣を持っているか
ex)レントゲン作品
レントゲンは過去多くの人の命を救ってきた
写真は見る側に均一な解釈をもたらすけれど、レントゲンは違う。同じ写真でも病巣を見つけられる医師とできない医師といる。写っているものを「読む」力が必要になるもの
写っているものは光だけれども光に物質としての存在はない。あるのは波長
X線は目に見えない波長の長さ
文字という実態をもたないものをレントゲンにかけることの意味


大人数が新規参入できる分野では、それだけ内容が似通ってくる
そこで冒険せずに大人しくまとまるのはいただけない


写真というのは大それたものではなく、単純なものである


フィルム写真はサイズが小さくなるほど、拡大鏡で見ても見えるほど高画質になるもの
デジタルの解像度の観念との齟齬


平面は連作にすることで、映画のようなストーリーと時間軸を持ってくる


作品に使ったモチーフが暗喩する意味について自覚しているか


アートスクールでこれをやる意味とは?



<自分的まとめ>
・プリントの色調整が甘いのは自覚してた
・準備にもっと時間をかけるべきだった
・もっと限定して作っていこうと思う。バーンと見えてるものだけで
・基礎造詣のスキルもちゃんと磨いていこう・・・
・何かしら世に出そう
写真新世紀を見てわかったけど、平面(写真)は作ったあとの見せ方に時間を割かなきゃいけない。点数、サイズ、形態。森山大道荒木経惟共に「ブックの形式が良い」「点数を絞るべき」みたいな見せ方に言及してる。蜷川実花は撮る時間よりも写真を選ぶ方に時間をかける
・タイトルももっと考えないと。志賀理江子はタイトルに一ヶ月かける
・面白い人だね、と言ってもらえて素直に嬉しかった。普通、面白くない、型にはまっていると言われ続けてきたし、そう自覚してたから



講評は終わったが
作品はまだ終わってないよ、ね!


畠山さんが私の言いたい事、考えてたことを、テレパシーみたいに全部汲みとって話してくれて本当に楽しかった。そうそう!そういうこと考えてたんです!みたいな。写真の表現について積み上げてきたものが圧倒的に違う
打ち上げに参加できなかったのは残念
原田さん畠山さんとゆっくり話せなかったのも
Dラボのみで打ち上げやって、3次会から参加すべきだったかな?とちらっと思った
着いたときに「Dラボいない」「Dラボ来ないの?」「Dラボって話したことない」っていろんな人が口にしててちょっと気まずかった


けどお酒楽しかった!もっといろんな人と話したかったな
次は卒展。これで終わりにしないで、休まずやり続けたい
就職?うーん


今まで:追い込まれたら逃げる この前:追い込まれてからやる 目標:普段から自分を追い込む