中世、あるいは古代に記された原典を現代語訳したもの


卒制の話を書き殴っておく



タイトルは最初「存在」で出してたんだけどあとで「祈り」って言葉が浮かんでこっちのがしっくりくるから副題でつけておいた

これを作る意味っていうのは、出発点は本当に個人的な動機で、「これらがいて欲しい、こういう世界であって欲しい」っていう祈り。柏手を打ったり讃美歌を歌う代わりに作るっていうことをする


出発点は「私の見えている世界はわたしだけのもの、あなたの見ている世界は私と全然ちがうもの」っていうこと


他人と自分の見ている世界は違うかもしれないっていうのは誰しもが一度は考えると思う。これは「赤」だと認識してるから赤だというけれど、他人は自分にとっての「青」を赤だと思ってるのではないか?とか見えてる風景が映像みたいに見えて(急に目が覚めたようになって世界が平面的に見える現象)、アリス症候群みたいに「見える」っていう行為自体が異常に思える体験

あと幽霊が「見える」人っていうのは明らかに違う世界をみている人だよね。見える人は何人か友人でいるけど、その人の隣にいるのに、同じ世界に生きているのに、目の前にあるものがその人には見えて私には見えない。

「絵を鑑賞するというのは画家の目を通して世界を新しい見方で見ることだ」っていうことを逆手に使って、私はその見える人の世界を見たい、見えないから絵のフィルターを通して擬似的に見ようとしてるっていう

人間原理宇宙論も面白い。「宇宙は人間が観測しうる範囲しか存在しない」っていう言葉、本来の意味とは違うけれど、「世界は自分が観測しうる範囲しか存在しない」っていうのに繋がるんじゃないか?人間原理が”なぜ宇宙はこのように人間のような高度な生命を生み出すのに適した構造をしているのか”っていう疑問に対する理論だとしたら”なぜこの世界は私が生まれるように進んできたのか”っていう疑問に対する答えにもなるよね。子々孫々に到るまで、何かのタイミングが一瞬でもずれたら自分は生まれなかったんじゃないかって疑問に思ったことはないだろうか

2ちゃんでたまにネタになる「おまえら本当はプログラミングでこの板にはおれしかいないんだろ」っていうのもそう。世界にいるのは自分だけっていう感覚。確実に「ある、存在している」って認識できるものは自分だけだから


そもそも観測されてる世界ですら認識できないじゃないか。細菌なんて見えないし赤外線も紫外線も宇宙線X線も電磁波も見えない。災害の基になる自然のエネルギーだって目で見えるわけじゃない。でも実際は存在してるし、自分に影響も及ぼす

だったら自分の目で見える世界が全てなんてどうして言えるのか


あとはなんとなく今までの人類に対する尊敬の念みたいなものも

宗教観・神話・怪談・伝承・おとぎ話・天文学・占術これらを何千年も何万年も伝えてきた人類に対してすごく尊敬の気持ちを持っている。
どんなにテクノロジーが発達しても、未だに100歳までは生きられない。1世紀したらそれ以前のことを体験として知ってる人類はいなくなる。人類全体が一回リセットされる。ということは人類は進化はしても進歩はしないんじゃないか
そんな中天国と地獄なんてものをずっっっっと前に考えだして、いまでもみんなが伝えてるってすごい。
石は何千年、紙は何百年、CDは10年で劣化するけれど人類の頭の中のデータは何万年も劣化しない。データ=最強のメディア説
しかも伝わり方に諸説あるけどどの宗教でも似たような話があるっていうのも興味深い
集合無意識っていう話にとても惹かれる。「光あれ」で名前をつけられなかった闇(名無し=存在を観測されないもの=無)とか観測されない領域、人の魂と言われる部分、どこかでつながっている意識、ガイア理論的一体感

それらが「今自分に見えないから無い」って決めつけるのはあまりにもな考えだと思う。
これを大真面目に考えてきた人類の時間を無価値とは思わない


そうやって人類がリセットされても共有される世界→通時的 上記の神話、伝承、宗教観
同じ時代の人間が同時に見る世界→共時的 都市伝説、UMA、噂
共時的なものに遭遇するときはチャンネルみたいなものがあって、いつもそこにあるけど見えないだけで、そのチャンネルに人が合う時に遭遇するんじゃないかと思う

6年前に地震に遭ったとき、それまでは普通の日常だったのに1分の出来事が過ぎたあとはもう非日常の世界。誰かが言った、日常は風船の内側に書かれた絵みたいなもので、針でつつけば外の非日常の世界が姿をあらわす、っていうのを体感した
本当に風船が割れたみたいに、ばっと目が覚める瞬間だった。その時の全神経が敏感になった感じも、いつしか日常社会のうすーいもやに包まれるように薄れて行く

日常と一緒にあるはずの非日常、見えない世界
チャンネルが会った瞬間に遭うなにか

原始、ラスコーの壁画は狩猟の絵を書いたのではなく洞窟の壁の向こうから来る精霊のエネルギーを絵に起こしたもの。獲物の絵を描くことで精霊のエネルギーを変換して動物に変わって欲しい獲物に恵まれるようになりたい願ったもの。
あって欲しい現実を先取りすることで本当になると信じられていた

写真も、フィルム写真は被写体に当たった光がフィルムに像を結ぶ仕組みで、物理的に触れた光がフィルムに当たり定着するわけだから本当にその被写体の一部を写し取るようなものだった。
デジタルになって、その向こうにあるのは被写体の体の一部の複製ではなく0と1のデータになった。藤幡正樹流にいうと非常にグロテスクなもの。フィルム写真とデジタル写真はまったくの別物だと思うけれどまだそういう意識は世間的にあまりないように思える。
だから人はデジタル写真でも「写真に写ったもの=真実」という思い込みが強い(まだ証拠写真や報道写真が変りなく存在している)

その思い込みを逆転して使って、本来あって欲しい姿を写真で晒すことで真実と願望の世界の境界を削ろうと思う

すでにある写真を使う理由
プラトンイデア論のように、理想的な真実はこの世ではない処にあると思ってる。
この世では無いところっていうのは、今自分に見えている世界では無いところ。神も無意識も時間も夢も運も全部「見えない世界」を構成する等しく一部なもの
私は自分の世界から物を作るんじゃなくて、ただそのすでにあるものの再現を目指して作る意識で取り掛かる
スナップ写真は、撮る側が何か作品的意図を込めたわけじゃなくて、無意識に撮られたものが多いと思う。その無意識の行動がもし「何か」に仕向けられたものだったとしたら、その力の源がきっと写っているはずだから、それを再現するだけ


今見てる世界以外に世界があって欲しいっていう願望を、写真の中に入れ込む過程(儀式)を通して現実に具現化するために作る作品
見た人の現実というものへの見方が変わってくれることを狙った作品

以上